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更新日:2015年1月16日

柏崎の魅力

美しい風景や自然、暮らしやすいまち、受け継がれる歴史文化。柏崎市に暮らしてよかったと思う、自慢のわがまち。

歴史を刻む多くの神社・仏閣が点在!

市内には、歴史を刻む
多くの神社・仏閣が点在しています。

大泉寺(だいせんじ)観音堂【国指定重要文化財・建造物】

写真:綺麗に葺かれた茅葺屋根に陽が注ぐ大泉寺観音堂。建物に向かって右斜めより臨む大泉寺(真言宗)は、日本海を見おろす海抜200メートルの大清水(おしみず)山上にあって、泰澄(たいちょう)大師の創立と伝える真言宗の名刹(めいさつ)である。

歴代越後守護家の尊崇を受け、戦国時代には上杉謙信、景勝等が武運の長久を祈ったという。

永禄2年(1559)5月21日落雷により堂宇(どうう)焼失、直ちに翌3年に再建されたという。
また、昭和25年・26年に国費で修築したが、この解体中、肘木(ひじき)に文禄2年(1593)の墨書が発見され、この肘木(市立博物館展示)も追加国指定にされた。

堂は、桁行3間、梁間4間、一重屋根寄棟(よせむね)造(づくり)、茅葺(かやぶき)の禅宗様建築で簡素な構造であるが、虹梁(こうりょう)、大瓶束(たいへいづか)、拳鼻(こぶしばな)などの絵様や曲線などに再興時以前の時代の形式や手法が認められる。

なお、平成16年・17年に屋根の葺替えや部分修理を行った。

平成19年中越沖地震で被災したが、修復された。

用語解説
一間社(いっけんしゃ) 神社本殿で、身舎正面の柱間がひとつのもの
身舎(もや) 建物の中心部分。母屋(もや)に同じ
組物(くみもの) 建物の柱上にあって軒を支える部分
蟇股(かえるまた) 上方の荷重を支えるとともに装飾ともなる部材で、カエルが足を広げた形に似ていることからこの名がある
妻(つま) 建物屋根の棟(むね)に対して直角に切り下ろした側のこと
大瓶束(たいへいづか) 建築で、形が酒を入れて杯などに注ぐのに用いる瓶子(へいし)に似た装飾的な束(束柱)のこと
笈形(おいがた) 蟇股状の装飾のこと
頭貫(かしらぬき) 柱と柱を上部でつなぐために柱の頭部に用いる横木
虹梁(こうりょう) 梁の一種。虹のようにそりがあることに由来する

大泉寺仁王門(だいせんじにおうもん)【市指定文化財・建造物】

写真:綺麗に葺かれた茅葺屋根に陽が注ぐ大泉寺仁王門。建物に向かって右斜め方向、下方より見上げる室町期の特徴を示す三間一戸八脚門で、寺伝によれば天正7年(1579)上杉景勝の建立といわれている。

ほぼ同じ長さの角柱12本の四周に桁をまわし、梁を渡した上に叉首(さす)を組む、斗栱(ときょう)は用いず主柱通りの虹梁(こうりょう)と楣(まぐさ)の絵様が僅かな装飾となっているが、薬研彫(やげんぼり)で鋭く古様である。
平成19年の中越沖地震で被災したが、修復された。

内部左右には「稲刈り仁王の伝説」(※注1)を持つ仁王阿吽(あうん)両像(木像)が安置されている。

仁王像の作成年代はわかっていないが、作風から室町期のものと思われる。
頭や胴体の主要部分は一本の桂の木から彫りだす「一本造り」という技法が用いられており、手足や背中などは寄木になっている。

平成19年の中越沖地震により、仁王門に安置された金剛力士立像2体も被害を受けた。
平成22年に修復を終えた阿形(あぎょう)像は、被災直後は足首付近から折れ、梁にひっかかって辛うじて転倒を免れた状態であった。
吽形(うんぎょう)像も自立はしていたが、左足首が折れ、今も修復の目途は立っていない。

注1:「稲刈り仁王の伝説」

昔、柿崎に能登屋(のとや)という家があり、その主人は大変信心深く、ことに大泉寺の観音様の熱心な信者であった。
毎月8日には欠かさずお参りをし、ろうそくや花をあげ、お堂を掃除したりしていた。

ある年、大そう天候もよく、稲は近年にない豊作で、能登屋の主人は「これも神様や仏様のおかげ」と喜んでいた。しかし稲刈り近くになると、能登屋の家で3人も病人が出てしまい、主人は困り果ててしまった。

そんなある朝、まだ暗いうちに能登屋を二人の大男が訪ねてきた。「おれたちは大清水の観音堂の仁王で、観音様からお前様が病人で困っているから、稲刈りの手伝いをして来いと言われてきたのだ」と言い、せっせと稲刈りを始めた。

おれたちは木造だからと言ってご飯も食べず、仁王たちは三日三晩ですっかり稲刈りをすませてしまった。喜んだ能登屋の主人がお礼を申し出ると、「それでは担がれるほどの稲をくれ」と言って、稲を沢山担いで帰って行った。

仁王たちは帰り道、困っている家や貧しい家にその稲をこっそりと置いていき、大清水の観音様のところへ戻るころにはすっかり稲はなくなってしまいました。

観音様へのお土産にともらってきたのに一把もなくなり、仁王たちはおそるおそる事の次第を観音様にお話しすると、観音様はにこにこして、「お前たちは本当に良いことをしました」と褒められた。

胞姫(よなひめ)神社

写真:胞姫(よなひめ)神社正面、参道に朱色の柱の灯篭が並ぶ

胞姫神社は安産・子育ての神様として知られ、市内に限らず、市外・県外からも多くの参拝者が訪れる。胞姫さんに献灯された短いロウソクを貰い受け、出産の際に点せば「産が軽い」と言われている。

胞姫の「胞」とは胞衣(えな)を意味しており、これは胎児のへその緒や胎盤のことをいう。

源義経一行が奥州へ向かう途中、上輪の亀割坂へ差し掛かったところで義経の北の方が急に産気づいた。

苦しむ北の方のために仮の産所を設け、弁慶は近くの社の前でひたすら祈願した。
するとたちまち北の方の苦痛も和らぎ、無事に男児の亀若丸を出産された。

義経と弁慶は大変喜び、亀若丸のへその緒を神社に奉納し、「霊験あらたかな安産守護神よ」と言って立ち去ったといわれている。

以来、この神社は胞姫神社と呼ばれ、安産の神様として大切にされている。

番神堂(ばんじんどう)
【市指定有形文化財・建造物】

写真:番神堂に向かって左斜め方から臨む

日蓮宗妙行寺(みょうぎょうじ)(西本町一丁目)に属し、文永11年(1274)佐渡赦免(しゃめん)の上陸の折、日蓮上人が三十番神を勧請(かんじょう)(神や仏の霊を移して祭ること)したと伝えられる。

明治4年10月の下宿(しもじゅく)(今の番神町)大火で類焼、同6年から再建に着手し、明治10年(1877)4月17日竣工した。

民謡の三階節に「番神堂がよく出来た…新町(しんまち)宗吉(そうきち) 大手柄」とあるのは、このこと。

権現造(ごんげんづくり)(本殿と拝殿との間に「石の間(相の間)」を設けるのが特徴)で、棟梁には柏崎町の4代目・篠田(しのだ)宗吉、石工は小林群鳳(ぐんぼう)、彫刻は出雲崎の原篤三郎・脇野町の池山甚太郎・直江津の彫富(ちょうとみ)、飾り金具は大久保の歌代(うたしろ)佐次兵衛の鋳造である。平成19年中越沖地震で被災したが、修復された。

極楽寺(ごくらくじ)本堂
【国登録有形文化財・建造物】

写真:極楽寺本堂正面。入母屋(いりもや)で上部が妻入りの瓦屋根、唐破風造(からはふづくり)の向拝(こうはい)が正面を向く

大久保(おおくぼ)(現・若葉町)の極楽寺(浄土宗)の本堂は、 正面は入母屋(いりもや)造妻入とし、 唐破風(からはふ)造の向拝(こうはい)を設けている。

切石積(きりいしづみ)基壇(きだん)上に建っている。

内部には前後2列各4室からなり、正面に奥行2間の広縁がある。

後列南から第2室を内々陣(ないないじん)とし須弥壇(しゅみだん)を構える。
大規模な浄土宗本堂の一例である。

  • 構造・形式および大きさ:木造平屋建、瓦葺、建築面積343平方メートル
  • 建築の年代または時代:宝暦8年(1758)/文化6年(1809)増築/大正7年・平成22年改修

極楽寺庫裏(くり)
【国登録有形文化財・建造物】

写真:極楽寺庫裏を左斜め方向から臨む。妻入りの瓦屋根に白壁の建物

庫裏は、切妻(きりづま)造妻入桟瓦葺で、 妻は梁(はり)と貫(ぬき)を重ねて飾り、 下方に下屋を設ける。

東面南寄りが入口で土間とし、その奧の3間×3間半を広い畳敷とし、胴差(どうざし)で固め、小壁(こかべ)は漆喰仕上げで、貫を2段に通すなど伝統的な民家の雰囲気をもつ。

  • 構造・形式および大きさ:木造平屋建、瓦葺、建築面積241平方メートル
  • 建築の年代または時代:江戸後期/平成22年改修

極楽寺経蔵(きょうぞう)
【国登録有形文化財・建造物】

写真:少し高い土台の上に建つ経蔵を下方より臨む

経蔵は、桁行7.3メートル、梁間5.6メートル、土蔵造、正面は数寄屋(すきや)造、背面は切妻(きりづま)造桟瓦葺(さんがわらぶき)で、正面側は棟に宝珠(ほうじゅ)を飾り宝形造(ほうぎょうづくり)風に見せる。
正面に唐破風造の向拝を付設する。内部は前後2室に分かれ、前室に八角(はっかく)輪蔵(りんぞう)を設けた特殊な形態になる経蔵(きょうぞう)である。

  • 構造・形式および大きさ:土蔵造平屋一部2階建、瓦葺、建築面積41平方メートル、輪蔵付き
  • 建築の年代または時代:文政10年(1827)/万延元年(1860)・平成22年改修

極楽寺鐘楼(しょうろう)
【国登録有形文化財・建造物】

写真:鐘楼を下方から臨む

鐘楼は、南北棟の入母屋造桟瓦葺。高い石積基壇上に礎盤を置き、四方転びに円柱を立て、貫や台輪で固める。柱上三斗組(みとぐみ)とし、中備(なかぞなえ)に蟇股(かえるまた)を飾る。

格(こうし)天井を張り、軒は二軒(ふたのき)繁垂木(しげたるき)である。

堅実なつくりになる鐘楼である。

  • 構造・形式および大きさ:木造、瓦葺、面積8.7平方メートル
  • 建築の年代または時代:江戸末期/平成22年改修

ごく楽寺山門(さんもん)
【国登録有形文化財・建造物】

写真:山門正面に向かって左方向から臨む

山門は、五平(ごひら)の本柱を間口2.7メートルに、奥行2.1メートルに控柱を立てる。
柱を冠木や梁で固め、三斗組(みとぐみ)で中備(なかぞなえ)に蟇股をおく。
妻飾(つまかざり)は笈形付大瓶束とし、軒は二軒(ふたのき)繁垂木(しげたるき)で切妻造鉄板葺とする。
棟を主・控柱の中間とするなど特異な形態になる。

なお、極楽寺の古くからの大門は、桑名(くわな)藩陣屋の堀割道であるので、この山門は境内の最も北にある。

  • 構造・形式および大きさ:木造、鉄板葺、間口2.7m
  • 建築の年代または時代:江戸後期/平成22年改修

閻魔堂(えんまどう)
【市指定文化財 記念物・史跡】

写真:閻魔堂の正面。平成19年の中越沖地震で壊れたが、修復された向拝が新しく映る。向かって右側に枝ぶりも見事な一本の松の木

十王堂(じゅうおうどう)であるが、閻魔市(えんまいち)のお堂として親しまれている。

戦国期の頃まで半田(はんだ)村(現・柏崎市内半田)にあったと伝えられる。
現在地は、旧柏崎町の東の「木戸」外で、旅人や浮浪者の宿に利用されていたという。
江戸中期には下町にあった馬市がこの周辺に移っていたが、天保頃から馬市に代わって旅商人、見せ物、博徒の集う季節市(きせついち)となった。

今も縁日は6月14日~16日と変わらず、露店500軒以上が参集する全国有数の縁日となっている。

現在のお堂は土蔵造で明治29年4代目篠田宗吉によって建てられた。中越沖地震で被災したが、立派に修復されている。

三島(みしま)神社
【市指定文化財 記念物・史跡】

写真:杉に囲まれて建つ社殿。手前には部分によって赤、橙、緑と色づく一本の紅葉

天平(てんぴょう)13年(741)越後国三嶋郡(みしまごおり)(現・刈羽(かりわ)郡)三嶋郷の郷社として創建されたと伝えられる。「延喜式(えんぎしき))」(927撰上)には三嶋郡六座の一つとして集録されている。

戦国時代には琵琶島(びわじま)城主の各氏が崇敬し、特に江戸時代初期の高田城主稲葉家が、同氏の祖神として崇敬し、造営整備を重ねた。

明治6年(1873)県社となったが、その後火災や台風によって往時の面影を失っている。現社殿は昭和6年の再建である。

平成19年中越沖地震で被災したが、修復された。

宮川神社本殿
【国登録有形文化財 建築物】

宮川神社本殿内の様子
写真:田村 収(おさむ)撮影

一間社(いっけんしゃ)流造こけら葺の本殿。身舎(もや)正面は方立と彫刻付の小脇板を構えて扉を設けずに開放し、内部は階段2級を設けて、その奥を内陣と内々陣に仕切る。

組物(くみもの)二手先で中備を蟇股(かえるまた)とし、妻は大瓶束(たいへいづか)に雲紋をあしらった笈形(おいがた)を付ける。

頭貫(かしらぬき)や彫刻の意匠に凝り、時代相応の特徴を示す。

宮川神社拝殿および幣殿(へいでん)
【国登録有形文化財 建築物】

写真:緑に包まれた境内に佇む宮川神社拝殿の全景。正面に向かって左側から臨む

三間四方で正面に一間向拝の付く拝殿と、一間幅で両側に下屋の取付く幣殿からなる。

拝殿の組物は出組、中備に蟇股を入れ、向拝虹梁上には龍の丸彫を飾る。
拝殿妻飾の虹梁に彫られた左右対称形の渦紋や蟇股などの装飾に、棟梁の篠田宗吉の特徴が見られる。

写真:宮川神社拝殿内部。正面奥に本殿。奉納提灯の他、色とりどりに装飾されている

宮川神社社叢(しゃそう)
【国指定文化財 記念物・天然記念物】

宮川神社の北から西を巡る合(かっ)羽(ぱ)山急斜面に、多種多様な樹木が昼なお暗いほど茂っている。

暖帯性の常緑広葉樹のシロダモが群生している。
これは日本海沿岸のほぼ北限の植生であり、学術上からも貴重なものとされている。

その他、タブノキ・アオキ・ヤブツバキの大樹が群生している。

落葉広葉樹類にはケヤキ・エノキ・エゾイタヤ・ミズナラ・カシワ・クリ、常緑針葉樹類にはモミ・カヤ・スギ・マツをはじめ、つる性植物、草本類、羊歯(しだ)類などが繁茂している。

平成19年中越沖地震で中央部斜面が崩落し、現在、植生回復が期待されている。

椎谷(しいや)観音堂
【市指定文化財 記念物・史跡】

写真:参道から椎谷観音堂をのぞむ。綺麗にふかれたかやぶき屋根の観音堂の上部が石段の上に見えている

「しいやの観音さん」として広く親しまれ、尊崇された観音堂である。
小高い岬の上にあり、300段の石段は頓入沙弥(とんにゅうしゃみ)が18年間かけて独力で築いたものである。
多くの奉納された馬や船の絵馬は、椎谷の馬市や海上運輸業の盛勢と安全信仰を物語っている。

縁起によれば、弘仁年間(810~823)の草創と伝えられるが、寛永元年(1624)焼失、現観音堂は明和7年(1770)9月の再建である。

平成19年中越沖地震で被災したが、修復された。

物部神社(もののべじんじゃ)本殿
【県指定文化財 有形文化財・建造物】

写真:物部神社本殿を右側面から臨む

二田物部神社は、越後二宮(にのみや)とされ、一宮(いちのみや)弥彦神社と共に著名であり、貴重な伝来品も多い。

本殿現状は前面に幣殿を連接してあるが、元は三間社流造(ながれづくり)の独立社殿であった。
主屋は三方に縁が廻り、脇障子を建てる。

妻飾(つまかざり)は当初の形式をよく残し、虹梁は大瓶束笈形付で直線状袖切のみで絵様はなく古風であり、大瓶束は結綿(ゆいいわた)を持たず笈形も大振である。
前面の板扉を除いた壁面は板壁である。

建築年代は、その様式から15世紀に遡ると思われる。
その後、正徳2年(1712)8月に本殿修理、宝暦7年(1757)7月に本殿屋根の葺替が行われたことが記録に残されている。

平成19年中越沖地震で被災したが、修復された。

御島石部(みしまいそべ)神社社殿
【市指定文化財 有形文化財 建造物】

写真:御島石部神社社殿正面に向かって右斜め方向から全体を臨む。社殿の左側に椎の大木

棟札に天保14年(1843)の建立とあり、本殿、幣殿、拝殿ともに同時期の建築である。いわゆる総欅造である。

本殿は長押(なげし)を廻らし、組物は尾棰(おだるき)のある二手先(ふたてさき)。
縁は四手先(よてさき)の腰組に支えられる。
妻飾(つまかざり)には二重虹梁大瓶束を用い、中備(なかぞなえ)は波形模様で細工は精緻である。

幣殿は切妻造(きりづまづくり)、桟瓦葺とする。
角柱を多用し、全体に控え目な意匠である。
本殿との取合せに後世の改造があるが、全体としては旧状を保っている。

拝殿は入母屋造、桟瓦葺で向拝一間が付く。
円柱を用い、斗栱(ときょう)は出組(でぐみ)、板支輪(いたしりん)には波紋を浮彫している。
向拝には海老虹梁(えびこうりょう)を渡し、中備には龍彫刻を施し、派手な意匠である。
柱間装置を含め、よく当初の姿を保っている。
近世末期の典型的な神社建築と考えられる。

御島石部神社シイ樹叢(じゅそう)
【県指定文化財 記念物 天然記念物】

写真:御島石部神社社殿裏から続くシイの樹叢を広場の手前まで引いて、全体を臨む。手前に広場、奥にソメイヨシノとシイの樹叢

日本海を望む石地(いしじ)集落の御島石部神社の社叢で、社殿の後にある高地を占め、約20aほどの範囲に、シイ(スダジイ)が密生している。

老木が多く、八本木と呼ぶ巨木を含めて、根まわり7m以上の大木が3本、目通りのまわり3m以上のものが10数本含まれている。

シイは、我が国の中部以南に見られる常緑広葉樹であり、本県は日本海側の北限にあたる。

自生林は、佐渡は海流等の関係から数ケ所に見られるが、越後側ではここだけである。

植物学上注目すべきシイの純林である。

石井(いわい)神社拝殿
【県指定文化財 有形文化財 建造物】

写真:境内の木々の下に佇む岩井神社の全景。正面に向かって左斜め方向から臨む

承和14年(847)相模国(さがみのくに)一宮の寒川(さむかわ)神社から分霊を配祀(はいし)したと伝えられる。

現状の拝殿は、背後の幣殿、本殿と接続するが、当初は本殿だったことが確認されている。
現在の向拝柱は、柱上を頭貫で繋ぎ三斗(みつど)を置き中備(なかぞなえ)は前面拳鼻、背面に手挟(たばさみ)を付け、共に古風である。

妻飾は虹梁大瓶束で、1本の虹梁を内側は2本に分けて造り出し、内陣と外陣で袖切の様式を変えている。

昭和48年(1973)、屋根はトタンに葺き替えられたが、改造の多い割には、当初材も良く残しているとみられる。

なお、建立年代を永正元年(1504)とする社伝もある。

縁起によれば、弘仁年間(810~823)の草創と伝えられるが、寛永元年(1624)焼失、現観音堂は明和7年(1770)9月の再建である。

平成19年中越沖地震で被災したが、修復された。

多多(ただ)神社本殿
【国指定重要文化財・建造物】

写真:建物で覆われて静かに佇む多多神社本殿。流造の社殿は間口1.7メートル、奥行1.06メートルと小さなもの

多多神社は、大同元年(806)の創立と伝えられるが、現在の本殿は棟札(むなふだ)によって永正16年(1519)に建てられたことが明らかである。

流造(ながれづくり)の小さな社殿で、覆屋(おおいや)で保護されてきたため建立当時の姿が完全に残されている。
身舎(しんしゃ)の間口は1.7メートル、奥行は1.06メートルで、正面と側面に縁と高欄(こうらん)を廻らしている。
大面(おおめん)取りの向拝(こうはい)柱に頭貫(かしらぬき)を通し、三斗(みつど)を用いて桁をうけ、向拝柱との繋ぎには海老虹梁をかけ、棰は二軒(ふたのき)、身舎の正面と向拝の斗栱間には彫刻蟇股を用い、妻には虹梁大瓶束に笈形をかけ、柱上部の頭貫や繋虹梁の先端には彫刻木鼻(きばな)を施している。

流造の正統を踏む室町時代中期の優れた社殿であるが、部分的に鎌倉時代の古調が残り、宝珠や木鼻彫刻に地方色が窺われる点も注目される。
平成19年中越沖地震で被災したが、修復された。

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