令和2(2020)年度の市長随想
このページは、「広報かしわざき」に掲載した記事をもとに作成しています。
鵜川(2021年3月号)
この3月31日をもって、鵜川振興協議会は40年余りの歴史を閉じ、野田コミュニティ振興協議会に統合する。
両者の思いをそれぞれお聞かせいただいた。
先を見据え、ご決断いただいたリーダーたちに心からの敬意を払う。
切なくも、お互いを思いやることのできる関係を継続できると確信した。
私はその鵜川下流約15キロの鵜川町(現西本町三丁目)で生まれ、育った。
我が鵜川町青年会は来年、令和4(2022)年設立100周年を迎える。
90周年の時に書いた文章を再掲したい。

「水道橋には穴があった。
歩く部分が木でできていた橋はずいぶん疲れていて、所々穴が開いていた。
怖かった。幼かった僕には鵜川の流れがずうっと下のほうに見えたのだ。
向こうに渡ると大洲小学校区であり、「違う世界」へつながる架け橋でもあった。
ある時、その水道橋のたもとで僕は釣りをしていた。
父から買ってもらった新しい竹竿にナイロンテグス、プラスチック浮き、がまかつの針にミミズをつけて鮒を随分釣っていた。
小学校5年生くらいだったと思う。
そこにおじいちゃんに連れられた小さな男の子がやってきた。
おじいちゃんの仕掛けは普通の白い縫い糸にミミズを結んだものだった。
もちろん釣れない。
その脇で僕はどんどん釣れる。
僕は釣れた鮒を全部その男の子にあげ、竿を片付けた。
なぜか悲しかったのだ。」
小学生のころ、鵜川スキー場にバスで通った。
夏、自転車で1回も下りずに中山峠を上った。
高橋満氏作詞「恋の舞扇」を今でも歌える。
鵜川小学校のプールで雪室作りをお手伝いした。
何よりも野田の金子錦弥さんから鵜川で鮎採りの技術を我が子3兄弟まで教えていただいた。
綾子舞は高原田、下野の両座元と共に南中学校、新道小学校の子どもたちが引き継いでいる。
鵜川の流れは今後も続く。
似て非なる(2021年2月号)
「また違う、雅治じゃなくって、雅浩だって」と独り言を言う。
頂いた年賀状の宛名である。
「そういえば、この前、福山雅治に似てるって言われたぞ」
「・・・・・・・・・・・・」
「福山雅治って、顔のことかなあ、声のことかなあ」
「・・・・・・・・・・・・」
夫婦の会話はまるで成り立たない。
思い上がりと哀れみが同居し、かみ合わない。
春を待つ越後だが、我が家はいまだ厳寒である。
また、このような文章を供することとなった。
やめろというお声も一つ二つあったのだが、再開を待っていますというお声をたくさん頂いた。
申し訳なくも、ありがとうございます。
新型コロナウイルスに関しても市民の皆さま、県民、国民にもさまざまなご意見がある。
丸々一年対応してきたのだが、お褒め頂くこともあれば、お叱りを頂くこともある。
行った施策に対して「そんなお金があったらお前の給料を減らせ」
柏崎市長の月額報酬は90万1,000円である。もちろん高額である。
私は改めてご批判に耐えうるような仕事をさせていただきたいと誓うだけである。
紅白で歌われた福山氏の「家族になろうよ」は殺伐としたコロナの時節、改めて多くの人の心を打った。
「父さんみたいな大きな背中で」
「母さんみたいな静かなやさしさで」
「どんなことも越えてゆける家族になろうよ」

同氏の「桜坂」は相手の幸せを願う名曲だが、桜坂峠は柏崎市鵜川・折居にある。
この美しい峠道を私は時々訪れる。
今は深い雪の下、淡いピンク色の山桜、雪割草がその時を待っているはずだ。
じっと待つ気持ちのやさしさ、相手を思いやる気持ちを私たちは持っている。
春は近い。
ありがとうございました(2020年11月号)
「市長随想など即刻やめろ」「二カ月に一度にしろ」というお声が2、3の町内会長さんから届けられた。
一方、楽しみにしているというお声もいただいている。
前市長さんから引き継いだことだが、結論は今号でいったんやめさせていただきます。
その後は新市長が決めればよいと思う。
私が心掛けてきたことは分かりやすさである。
拙い文章かもしれないが、少しだけ、ほんの少しだけでも皆さんに感じてもらいたいこと、考えていただきたいことを織り込んできたつもりだ。
何事もそうだが、世の中、合理と非合理の組み合わせで成り立っている。理屈と感情だ。
「分かっているけど面白くない」ということで人はさまざまな行動にでる。
テレビでは毎日、美容、健康に関するCMが流れている。
「この方は何歳に見えるでしょう?」
「40歳?」「45歳?」「いえ、70歳です」
「えっー! 信じられない」
今の世の中である。
インターネット上にはすぐさま「あの人ねえ、整形しているのよ」などと投稿が載る。
「有ること無いこと」が「事実」として動き始める。
ドラマ「半沢直樹」ロスは私も著しいが、勧善懲悪にスカッとしたなかで唯一引っかかったことがある。
女性大臣が幹事長の大切にしている盆栽を床に打ち付ける場面である。
あれはダメだと思う。
かくいう私も感情に流され、流されそうになった時もあった。
皆さまのお気持ち、お考えを可能な限り斟酌(しんしゃく)、理解し、政策に組み立てなければいけない立場であったわけなのだが、あちらを成り立たせるためにこちらを切る、ということも重ねてきた。
いずれにせよ皆さまの審判を仰ぐ。
結びに各回にわたりネタになってもらった妻には感謝する。
彼女の名誉のために申し上げるならば、さすがに四六時中お菓子を食べているわけではない。
冷蔵庫の不思議(2020年10月号)
「この前入れておいたシャインマスカット入りのジュースが無い!」
「あっ、少し味見しておいた」
(味見というのは全部飲むことか?)
家庭にある電化製品の中で冷蔵庫ほどの働き者は無いであろう。
何といっても24時間、365日動いている。今年の夏も大活躍だった。
電気冷蔵庫は原型が100年ほど前にアメリカで開発されたと聞いた。以来、私たちのいわゆる文化生活を支えている。
設置したときから冷蔵庫の電源コンセントは差しっ放しというご家庭がほとんどではないだろうか。
当たり前のように電気を使い、冷やし続けている。
一方、エアコン同様、冷蔵庫も熱の移動を促しているだけであるわけだから、奪われた熱は室内、屋外に放出され続けている。
さて、と思う。
私たちは矛盾の中で生きている。
以前、途上国において、水よりも衛生的で、安い、という理由から、露店で売られている温かなビールで歯を磨いたことがあった(もちろん残りは飲んだ)。
歓迎すべき体験ではなく、やはりビールは冷えていないと価値が無いと思う。
我が家の冷蔵庫には、ビールとノンアルコールビールが中央に鎮座している。
ビールといっても第三のビールだが、これは私と長男が小遣いの中から買う。
妻が飲むノンアルコールビールは食費という「我が家の公費」から出されている。
これはおかしいだろう。大体ノンアルコールの方が高い。さらにおかしい。

これからの寒い季節、かつてはこたつに足を入れながら季節の果物ミカンを食べるという光景があった。
現代ではエアコンの暖房を効かせながら冷蔵庫から取り出すアイスクリームがおいしい。
冷蔵庫は家庭内のささいな騒動も誘発し、気温40度という地球温暖化、目の前の危機をも考えさせてくれる。
身近で、かつ人の営みの矛盾を静かに指摘する哲学的な存在でもある。不思議。
ついでにオマエも頭を冷やせ、と言われそうである。
祖父が遺したもの(2020年9月号)
祖父は32年前に亡くなっている。名を正義(まさよし)という。
戦前から柏崎商工会議所でお世話になっていた。
その頃の人としては背も高く、うまそうに日本酒を飲みながら「おまえはまあ、学校の先生だな」と私の将来を予言していた。
昔の我が家には唯一の洋間があり、そこが祖父の書斎であり、応接間であった。
木の大きな机、ペン立て、客人用のタバコと卓上ライター、そして、書棚を覚えている。
その中にあった一冊が新渡戸稲造『修養』である。
明治44(1911)年、今から109年前の本だ。
新渡戸は盛岡の生まれ、教育者、思想家であり、国際連盟の事務次長を務め、東京女子大の初代学長。何と言っても、五千円札に描かれたことがある。
今、祖父の予言から外れた道を歩んでいる私は『修養』を30年も経って初めて紐解いてみた。
全17章からなる大書は非常に興味深かった。多くは現代においても当てはまる。

第14章 黙思
「大伸(たいしん)の前には大屈(たいくつ)がある。大いに発心する前には、大いに沈黙する必要がある」
第15章 暑中の修養
「一日を海浜に送り、快活なる大洋を見ては、偉大の思想を起し、晴天の夜、星斗(せいと)の欄干(らんかん)として輝けるを見ては、宏大なるを身にしみじみと感じ、心がけさえあれば、如何(いか)なる事柄よりも教訓を受けられる」
第16章 暑中休暇後の修養
「今は夏と秋の行かい、遊び、仕事の不定の時期。この時こそ集中力を養うべき」
第17章 迎年の準備
「三日坊主でも良し。善事は如何(いか)に小事なりとも活力が潜んでいる。一寸(ちょっと)の間でも行うが良し」
さすが、博雅(はくが)の士である。
一方、私は、109年前の本、少なくとも数十万円はするだろう、とネットで調べてみた。
6500円。おい、じいちゃん!
孫は修養が足らぬ俗人、薄雅の士である。
オー・ソレ・ミオ(私の太陽)(2020年8月号)
「オー・ソレ・ミオ」を初めて集中的に聞かされ、歌わされたのは35年前の8月、ネパール南部の川の中である。
ヒマラヤのトレッキングを終え、ゴムボートによるラフティング(激流下り)にチャレンジしていた。
私以外の7人は皆イタリア人であった。
ヒマラヤから流れる水量は著しいものであり、ゴムボートは2階建ての高さから落ちるような波をかき分けて進む。
イタリア人たちはずうっと「Ilsole mio」と歌っていた。4時間ずうっとだ。
途中「オマエモ ナニカ」と言われた感じがしたので「花びらが散った後の桜がとても冷たくされるように」と風の「ささやかなこの人生」を歌った。
しかし、イタリア人たちの顔はダメ出しである。
「キミたちに、大和魂、自然を愛でる繊細な感性など分からぬわ!」
とムッとしたが、何かイタリアの歌を、とのご要望のようである。
そこで中学校の時に習った「サンタルチア」を「スル・マーレ・ルチカ…」と歌った。
ヤンヤの喝采である。全く単純である。とにかく受けた。
パドルをこぐことを止め、拍手をしてくれるものだから、ゴムボートはバランスを崩し、私を含め皆激流に投げ出された。
流れが激しいところこそパドルを使うことを止めてはいけない。
こんな鉄則も知らぬのか、と言う暇もなかった。
以来イタリア人が大好きになったのである。
原稿を書く今も実はパバロッティが歌う「オー・ソレ・ミオ」を聴いている。
私は音楽の門外漢だが、パバロッティの生の声を聴きたかった。これだけが残念である。
恰幅の良い体を響かせる彼の歌声は、今も皆の太陽である。
明るくさせてくれる。底抜けの明るさである。
più bello non c’è.(もっと輝く)
Il sole mio,(私の太陽)
sta in fronte a te!(君の瞳に輝く)
Il sole, il sole mio,(私の太陽)
パドルを持ち直す私の横で我が家の太陽は寝ているので見えない。
パバロッティの「トゥーランドット『誰も寝てはならぬ』」を聴いてください。
蜜の雨(2020年7月号)
「手紙を書いたら叱られる 電話をかけてもいけない」と始まる「ホテル」という歌をバスの中で歌い、女子高校生から喝采(非難)を浴び、翌日、校長から「君ねえ」と指導をいただいたことがある。
文月、7月、手紙、雨の季節である。全くと言っていいほど雪の降らない冬、コロナの春を過ごし、夏となった。
マスクをしないと怒られる、握手をしてもいけない、大部屋で会って、大部屋で別れる、2メートルの恋の幸せ? と歌が変わってしまいそうである。
フェイスガードをつけ「三密」を避け、ソーシャルディスタンス、食事に専念、会話は控えめに。趣も何もない文月である。
シュールレアリスムの世界である。
9月入学の話がにわかに浮上し、あっという間に無くなった。
これに関して、英国オックスフォード大学教授の苅谷剛彦さんは「導入したら何が起こるか」ということを推計したデータを提供した。賛成派、反対派がそれぞれ反応したが「エビデンスを数字で示したのにそれさえも結局、二項対立的な分断構造にのみ込まれてしまった。
議論を白か黒かで理解する傾向は、20年前よりむしろ強まっているようにも感じます」(朝日新聞オピニオン)と苅谷さんは無力感を伝えておられる。
私も感じるところがあり、空いた休日、山、海、川へ出掛けた。
女谷、石黒を通って岡野町まで、鵜川河口から鯖石川河口まで、甲戸、別山後谷、大崎、石地、また越後線沿いに荒浜駅まで歩いた。カヌーで鯨波から番神。

西中通の山中では、柏崎産の蜂蜜を取る養蜂家親子から不審者に間違われた。
事情を話すと蜂の習性やアカシアの林で降る「蜜の雨」を教えていただいた。
花からこぼれる蜜が降るのだという。
人も自然も多様である。
人か自然か、でもない。
密の嵐が吹き荒れる中、蜜の雨も降っている。
声援―エール(2020年6月号)
作曲家古関裕而をモデルにした朝のドラマ「エール」を見ている。
大学応援歌「紺碧の空」、阪神タイガース応援歌「六甲おろし」(ライバル巨人の球団歌「闘魂こめて」も古関)や夏の甲子園「栄冠は君に輝く」は好きな曲で、折々口ずさんできた。
「エル、よおーい(用意)!」
中学3年生の応援団長が、6月の柏刈大会前、私たち1年生を指導したことを思い出す。
その頃、身長150センチメートル程しかなかった私は「Lなんてねえよ、どうせオレはSだよ。なんだよLって?」と思っていた。
40数年が経ち、ようやく「エール」だとわかった。
徒然草の第40段は、美しい娘が多くの男性に求婚されたが、栗ばかりを食べ、米を全く食べない様子に「かかる異様のもの」と親が許さなかった、という話である。
評論家小林秀雄は「これは珍談ではない。徒然なる心がどんなに沢山な事を感じ、どんなに沢山な事を言わずに我慢したか」と書いている。
私は受験の時に出会った、この小林の文章をずうっと理解できずにいた。兼好法師の筆は何を言おうとしていたのか?
数年前、ようやく分かった気がしてきた。
普通に暮らすということがいかに貴く、難しいかということ。
そして、少し違うということが生きていく上でさらに困難だということ。
長年世間を渡ってきた親は身に染みて理解し、だからこそ嫁に出さないという、複雑な、しかし深い愛情表現、エールなのではないか。
体も態度もLLになってしまった私ながらの答えである。

「美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない」(小林秀雄)
「幸せだから笑うのではない。笑うから幸せなのだ」(アラン)
今は皆さん、お互い、自分にも他人にも
「エール、よおーい!」
先生からの言葉(2020年5月号)
51年前(自分でも驚くのだが)、私も小学1年生であった。過日、担任をしていただいた恩師からお手紙を頂いた。私のほんの小さな行為を喜んでいただいたのだ。58歳になった今も先生に褒められるのはうれしい。
30年前、勤めていた女子美術大学附属高校を辞め、柏崎に戻る決心を固めた時、喜び、悲しんでくださった上司(その後校長先生)からもいまだにお手紙を頂いている。寛容の精神、という言葉を教えてくださった恩師である。
学生だったころ、俳句の泰斗から「内容はともかく、君、頑張れよ」と激励の言葉を頂いた。無謀にも先生の御説に異論を申し上げた時であった。Aが付けられ、返された一茶のレポートは大切に保管してある。末代までの宝である。
中学陸上部では反乱を起こした。
高校山岳部の部室で寝袋に入ってサボっていたところ見つかり、脇にあったザイルでグルグル巻きにされ、放り出された。しかし、いつも先生方は「おまえなあ!」と仰り、2時間後には赦していただいたように思う。
私は今、市長職を担い、皆さんを励まし、正しく導いているのであろうか。まだまだであろう。これまで頂いてきた先生方の温かな言葉を胸に、また戒めともし、与えられた責任を強い気持ちで果たしていきたい。

「市長さんですよね、おはようございます。マスク、ありがとうございました。妹が中学校でいただきました」
朝、通勤の途中、声をかけられた。しっかりした女子高校生だった。
さまざまなことが起こる中、街角でお声掛けいただく言葉に人様の情を感じ、教えられている。悪いことばかりではない。初夏、新緑に薫風が吹いている。
卒業式の祝辞に代えて(2020年4月号)

小学生の皆さん、中学生の皆さん、こんにちは。今回の新型コロナウイルスの問題、大変ですよね。早く学校に行ってお友だちに会いたい、一緒に勉強したい、遊びたい。けれどももう少し待ってください。
さて、小学校6年生、中学校3年生の皆さん卒業おめでとうございます。この原稿が届く頃はきっと入学おめでとうございます、かもしれませんね。今年の卒業式はどこの卒業式にも行けませんでした。申し訳ありません。ここで卒業式でお話ししようとしたことを書きます。
先ほど、皆さんは校長先生から一人一人卒業証書を頂きました。ドキドキしたと思います。お辞儀の仕方大丈夫かな、途中でつまずかないかな。緊張しましたよね。
同じように後ろの方で、ご家族の方もあなたたちを見ていて、ドキドキ、緊張、心配していたと思います。自分のことを心配するだけでなく、子どものこと孫のこと他人のことを心配することができる。これが大人です。あなたたちは小学校を卒業し、中学校を卒業し、少しずつ大人になるのです。人のことを心配できる大人になるのです。思いやりを持つ大人になるのです。
いろいろなことがあります。これからはもっといろいろなことが起こります。私からのお願いです。そのとき、難儀なとき、困ったとき、思い出してください。家族を、友だちを、柏崎の仲間を。将来は柏崎を出ていく人もいるかもしれません。けれどもどこの地にいても柏崎の人を思い出し、柏崎を応援してください。柏崎はいいまちです。素敵なまちです。柏崎も皆さんのことをずうっと応援しています。
おめでとう。皆さんの幸いを心より願っております。
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更新日:2021年03月05日