中村文庫
中村文庫とは
1918年12月、中村藤八氏から刈羽郡に一括寄贈された文庫。現在は当館3階の中村文庫室に保管されている。
約3,000点の図書、古文書、軸、器物などからなる。内容は各分野におよび、郷土研究に欠かせぬ貴重な資料を数多く含む。寄贈された当時は、長岡市の互尊文庫と並び称せられたという。中でも貞心尼の関係資料は良寛研究者に早くから注目され、藤八翁の慧眼は高く評価されている。
また、藤八翁は出版物にとどまらず、自身の聞き書き、写し書き、新聞スクラップ、土器片、古文書なども蒐集の対称としている。その内容も実に多岐にわたり、総体として中村文庫は地域研究の礎となっている。
なお、中村文庫土蔵は1965年代、旧図書館の新築時に取り壊されたがその看板は現在も当館の3階中村文庫室の前に掲げられている。日本石油創始者内藤久寛の揮毫により欅の1枚板に彫り込んだものである。数十年の風雪に耐え往時の姿を今に伝えている。
中村藤八氏
嘉永6年(1853年)8月、旧高田村上方(柏崎市上方)の中村藤左衛門の長男として生まれる。
35歳の時、農業から商業へと「処世変更」をとげ、柏崎物産会社を創業する。その後海運業、倉庫業、石油販売などの経営にあたるかたわら、政党・選挙活動、鉄道敷設運動にも東奔西走する。また、文化的事業としては、生田萬の埋骨場の整備、後に中村文庫と称される郷土史料の蒐集に熱意を燃やす。
藤八翁の「公益優先」の精神は、1918年12月、刈羽郡に「中村文庫」を寄贈したことにもよく表れている。このことを当時の山中新潟県立図書館長は「柏崎図書館蔵書分類目録」(1921年3月刊)の序文に次のように書いている。
『中村文庫の内容は翁が前後五十年間地方のため、自分の力に依って完全なる保存を図ってやりたいという侠気と周到なる用意と而して不断の努力とによって蒐集せられたものであって、その苦心は曾つて斯道に経験ある人達以外には創造だもなし能わざる程度のものであったことは明らかなる事である。
しかも蒐集家の多数は所謂珍蔵して自家の愛玩とし或は以て友に誇るの料とするのが常であるにもかかわらず、之を一括して図書館に提供し衆庶の研究材料とせられた翁の義侠と意気は実に敬服に値するものであると思う』
しかし、藤八翁はこの序文を目にすることなく、寄付から2年後の1920年3月に63歳で亡くなっている。
『中村藤八は高田村上方の産。明治初年改進党の組織せららるるや逸早く之に参加し、党を支持すること熱烈。有力者の後援を得、柏崎に移りて物産売捌所を開き図にあたる。今の駅前石油業中村商店はその後身。晩年山田八十八郎、松本徳聚等を顧問とし郷土史料を蒐集し、一括して柏崎に寄付す。図書館内中村文庫は即ち是れ。性闊達「此の藤八は死ぬまで活きている」の言で有名。政党の重鎮でありながら、県会、国会議員とならざりし所に味あり。1920年没、68歳。』(「柏崎人物誌」より勝田加一著)
『この中村藤八氏の蔵書寄付については、早くから識者の間に問題となっていたが、当時、この蔵書類の寄付を受けてもこれを収納するための建物を必要とするということで郡会に異論があったのである。そしてこの情勢を察知した中村藤八氏は、蔵書類の寄付とともに建物の必要なことを感じ、飯塚弥一郎、西川藤助氏ら各方面の協力を得て1918年文庫を建築し、刈羽郡へ寄付したのである。』(「柏崎市立図書館六十年史」より)
中村文庫所蔵資料
貞心尼関係資料
図書館で所蔵している「貞心尼」直筆資料10点のうち、8点が中村文庫のものである。中でも「蓮の露」は市の文化財に指定され、大切に保管されている。
また、貞心尼の弟子智穣尼から中村藤八が直接聞き取り、書き留めた書類や貞心尼のよき理解者山田静里翁などの書画なども残されており、良寛・貞心尼研究の貴重な資料となっている。
山田八十八郎関係資料
『とくに注目すべきこととして、柏崎の郷土史家山田八十八郎氏の著作が全部保存されてあることである』(「柏崎市立図書館六十年史」)とあるように、刈羽郡長をつとめ、中村藤八の資料収集を助けた山田八十八郎の著作、使用した机、落款などを多数保存する。
生田萬関係資料
江戸末期の飢饉に貧した柏崎で、陣屋に切り込んだ生田萬。中村文庫には萬書の神代文字の額、萬と妻鎬の和歌短冊など、萬の関係資料も数点であるが含まれている。短冊は市立博物館で見ることができる。
寄付当時の中村文庫と郡会議員
現在の中村文庫室内部
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更新日:2020年01月31日