草生水の歴史と献上場

草生水(くそうず)とは石油の古い呼び名です。

最初は「臭い水」と呼ばれていたのでしょうが、いつの間にか「くさみず」「くそうず」となり、草生水と書かれるようになりました。

献上場(おんじょうば)入口の写真

西山町誌によると、発見されたのは今から約1500年前となっています。妙法寺村の西村某(名前は定かではありません)が、流れてくる黒く臭い液体のありかを突きとめるために坂を上ったところに湧出口があったと書かれています。言い伝えでは、そこが現在の柏崎市指定文化財「献上場(おんじょうば)」です。

やがて、この黒く、臭く、火をつけると燃える液体は「燃える水」としてとして灯火利用にされるようになり、その他にも、水をはじく性質が防腐剤としても利用されたといわれています。

献上場の紹介看板の写真

日本書紀によると、天智天皇即位7年(668年)の秋、越の国より「燃える水、燃える土」が大津宮に献上されたという記載があります。「燃える水」はもちろん草生水です
「燃える土」はおそらく草生水が乾いたものであったと思われます(一説では石炭だとも言われています)。

献上者は、当時の国主で巨大な勾玉の持ち主である二田伴造(とものみやつこ)といわれています。

献上場(おんじょうば)の写真

その後、慶長3年(1589年)春日山城主・堀左衛門督秀治は、この地域に米3石(450キログラム)の年貢を賦課します。さらに元和2年(1616年)椎谷藩主・堀左衛門直之は、米3石3斗(495キログラム)と灰吹き銀100匁(375グラム)を賦課し、これが明治6年(1873年)まで続きました。発見以来、草生水がいかに重宝されてきたかがわかる事例です。    

献上場(おんじょうば)からわずかな原油が湧き出て水面がぷくぷくとしている様子の写真

また、草生水は嘉永5年(1852年)に妙法寺の西村毅一らが焼酎の蒸留方法を応用して灯油の製造に成功するなど、その使用の仕方にも工夫がされています。

明治以降、需要がか拡大したため、妙法寺から坂田にかけて乱掘が行われ、資源が枯渇しましたが、現在も献上場はわずかな原油が湧出しています。

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更新日:2020年01月31日